この稿を書くにあたり、私は以前から「あれから何年・・・」のタイトルを随分使いまわしてきました。そして、今また、このタイトルで書こうとしています。そうです、昭和一桁生まれとしては特別の思いがあります。町内会活動の一翼を担わせていただいていると思っている私としては、尚更のことです。
1941年12月8日、朝、「戦争が始まった」という姉の叫び声でラジオの前に座り、「・・・西太平洋上にて米英軍と戦争状態に入れり・・・」という放送を聞きました。それから戦中時代に突入です。小生、小学2年でした。その前年、1940年(昭和15年)、町内会の中に「隣組」が編成されました。さらに、隣組が戦時下の「大政翼賛会」に組み込まれ、まさに軍部と共同体になったのです。
警戒警報のサイレンと同時に「灯火管制」下となり、家中の明かりが外に漏れないよう遮蔽幕で明かりを覆いました。それを外から監視するのが「隣組」の役員で、明かりの漏れている家は「非国民」でした。消火訓練に参加しない家も「非国民」扱いでした。隣組のオジサンは本当に怖い存在でした。
当時の小学校高学年は「新聞配給」という名で新聞配達が義務づけられていました。1945年(昭和20年)某月の朝、新聞配達中の私は、グラマンによる機銃掃射に遭遇し、命からがら我家の防空壕に飛び込みました。思い出したくもない戦時中のことですが、現実の出来事でした。そして、1945年8月の終戦を迎え、1947年に町内会は廃止となりました。
・・・・町内会が再開されたのは、1952年(昭和27年)のことです。昭和100年の今、その大半を生きてきた者達にとって、さらに、その後の戦後80年を追想するとき、「楽しい日本」とまでは言えなくとも、優しい「隣組」に恵まれた、今の「町内会」を大事に育てて行きたいものです。
(阿部貞夫山鼻町内会連合会会長 令和7年1月山鼻町内会連合会新年交礼会にて)